あさこはうすレポート
大間原発が抱える世界に例のない二つのこと
2012年7月 昨年311福島第一原子力発電所の事故以来工事が中断されている大間原子力発電所及びその周辺のことが気になり視察に向かった。参加者は現地で建設反対を貫く女性とパイプを持つM準教授(先住民族の研究)法律と中東問題の研究科 K准教授、フォトジャーナリストで中東の取材をしているT女史。函館に集合し朝フェリーで大間に向かう。
一時間半の船旅はあっという間に過ぎ、大間上陸となる。
7月はコンブ漁が収穫の時期
港周辺には収穫したコンブを干す漁師の小屋が点々とあるのどかな風景がある。大間近郊は良質のコンブ、ヒジキ、モズクが採れる。ここから我々は大間原発用地のほぼ中心にある私有地に歩いて向かう。フェリーターミナルから直線で一キロ強。道なりで1.7キロ程度。
現地周辺の地図 赤く表示されたのが大間原発用地。この計画には世界でも例のない二つのことがある。
世界に前例がない事 そのⅠ
大間原発は世界初の出力138万kw改良型沸騰水型軽水炉(ABWR)フルMOX炉原発
泊原発3号機などのプルサーマル計画は装荷燃料の1/3程度をMOX燃料とする
大間ではすべてMOX燃料となる。
このようなフルMOX原発は過去に例がない。もともと商業炉(実際に発電ビジネスをする原子炉)でのプルサーマルの実績すら日本以外にはない。
実験炉もなく、いきなり国内最大級のフルMOX原発建設が許可された。
311以降に電源開発が地域に配布した安全に関する資料その1
電源開発が周辺自治体、地域住民に配布した311以降の安全対策資料の図
1)津波の評価
想定される津波から最大高さを+4,4メートルと評価している。原子炉等冷却が必要な設備は
敷地高さ+12メートルの主建屋(原子炉建屋、タービン建屋など)内に設置する。
2)非常用電源
原子炉建屋の1階(敷地の高さ+12メートル)に非常用ディーゼル発電機を3台設置した。
また非常用設備に電力を供給することが出来る送電線として、50万ボルトの送電線、と
6万6千ボルトの送電線一回線がある。
さらなる安全対
3月30日国の緊急安全対策を受け、大間原子力発電所について次の安全対策を検討し、建設中に実施する予定。
1)津波対策
津波の衝撃を緩和するとともに発電所の主建屋への浸水を防止し、建屋内の機器を海水から守るため、主建屋周りへの防潮壁の設置、主建屋の外扉などの防水化を行う。
2)緊急時の電源確保
緊急時に発電所外部からの電源がなくなり、更に非常用ディーゼル発電機が使用できなくなった場合に備え津波の影響を受けない高台への非常用発電機の設置、電源車の配備を行う。
3)緊急時の冷却機能の確保
緊急時に原子炉や使用済核燃料プールを冷却するための機能確保のための水タンクの補強、移動可能な可搬式動力ポンプ、海水ポンプ電動機などの予備品を配備する。
また消防自動車の追加配備などを行う。以上
この内容を言い換えると福島第一原子力発電の事故の教訓は全く生かしませんと宣言しているようである。
そもそもこの福島事故の原因すら特定できていない。津波以前に地震でメルトダウンした可能性が高いという。この可能性に全く触れずに津波で電源が喪失したことへの対策のみにだけ触れている。
さらに高さ+4,4メートルという想定高さもこの原発計画を変更せずに進めるための詭弁にすぎない。
世界に例のないもう一つのこと
130haの原発用地の中央に1haの飛び地、熊谷あさ子所有の農地がある。
炉心からたった300メートルのところに個人の農地が存在しながら2008年に工事許可が下りた。
原発用地内ほぼ中央に個人の土地が存在し、そこに毎日人が通い、郵便が日に100通届き、全国から週に何組か人が訪れる。そこがあさこはうすである。
このような状況での原発着工は世界に例がない。
たった一人の女性が農地売却に応じず、想像を絶するような圧力に屈することなく戦い、事業者である電源開発は計画変更を余儀なくすることになり、少なくとも着工を4年間遅らせた。
そしてこの孤独な戦いは娘に継がれながら今も続いている。
政財界と電源開発は3まるで原発事故などなかったかの如く工事を進めようとしている、史上最悪の原子力発電所の工事を。
我々は原発用地の途中にある切れ目から私有地に向かう連絡通路に入る。有刺鉄線に囲まれ、途中には監視塔、監視カメラが設置されている。パレスチナのヘブロンやビリン村のような気分にされる。そして我々も例外なく監視されている。
そして現れた巨大なタービン建屋とクレーン。その下に小さな三角屋根が今回の訪問先の{あさこはうす}
大間で半農半魚の生活を営んできた熊谷朝子。娘の厚子によると母はよく言っていた。「恵まれた漁港でさらに農作物が取れた。
戦時中、戦後の大変な時も食いものに困らなかった。当時食べ物にも困った人たちが大間にきてよく食べさせてやったものだと母は祖父から聞かされていた。この土地を手放してはならぬとも。」
大間原発のここまでの流れについて小笠原厚子さんの話を交えてまとめてみた。
1963年 青函トンネル着工 その数年後、工事の振動などで津軽海峡にマグロ、ブリなどの回遊魚が寄り付かなくなる。この情報を電源開発は早い時期に入手し地元商工会に働きかけていた。
1976年 漁業に危機感を感じた大間町商工会が原発の誘致を検討する。
1978年 原発計画が明るみになる。
大間漁協、奥戸漁協の大半が計画に反対したが、電源開発は社員を大間に住まわせ、長期的に地元との交流をすすめ、漁協長の説得に成功。
彼が推進派に変ったことから漁協の多数決で建設容認となる。
1990年 大間原発計画地にある共有地には157名の地権者が存在した。はじめは反対を誓った地主たちは徐々に買収されていく。当初100万円から始まった共有地の売価が最後には1億を超えたという。この時点で売却に応じなかったのは熊谷あさ子たった一人だった。
1999年9月 電源開発は通商産業省に原子炉設置許可申請
2001年町長、町会議員などが毎日のようにあさ子のお宅を訪れた。2月26日から3月30日までの間に25回通ったという。
2002年 熊谷あさ子用地の買収を依頼された2名の男が交渉に失敗。使い込みがばれることを恐れた狂言強盗事件をたくらむが失敗。非合法な買収計画が表ざたになる。
娘の小笠原厚子に事件の調査のため警察から連絡があり、初めて事態を知ることになる。
母は原発用地の買収に絡む、嫌がらせ、脅しなどが娘までに及ぶことを恐れ娘にまで隠し通していた。
2003年2月 電源開発は炉心建設予定地付近の用地買収を断念。炉心建設予定地の変更を行い、主要建屋を200~250m南西に移動した。
2003年 共有地訴訟がはじまる。朝子は共有地の権利を放棄しなかった。
共有地とは農地内の農道、田んぼのあぜ道など、熊谷あさ子を含め所有農民の共有地のこと。
朝子は青森の弁護士に弁護を依頼。
2004年3月 電源開発は発電所配置計画見直し,改めて経済産業省に原子炉設置許可申請
2004年3月に彼女に和解勧告を進めた弁護士を解任。娘厚子はいう 母はこの時言い放った。
「裁判に勝つことが目的ではない。長引かせて大間原発の着工を阻止することが目的だ。」
2004年4月7日 至急知人の新聞記者を通じて原子力資料室に相談、河合弘之弁護士を紹介される。
河合弁護士は後日語っている。
「当時勝つ見込みのない裁判です。初打ち合わせの後、一杯やることになり、その席で一億円受け取らなかった訳をききました。」
あさ子は言い放った
「金なんて何億もらってもそのうちなくなる。だが大間の海は捕りすぎず、さぼりもせず暮らせば、ずっと生きていける。」
彼女はその時河合氏に地元産の塩ウニをごちそうした。おいしくいただいた河合弁護士は
「このウニが契約金だな」と快く引き受けた。
結果的に判決は2006年11月まで延長
2005年10月 原子力安全委員会は第二次公開ヒアリングを開催
同年 あさ子は農地に住み生存権を盾に戦うことを決心。建設に協力してくれる地元業者がいないために、自分でログハウスキットを購入して娘厚子と二人で建設した。この時本人たちではできない屋根周りの処理、防水などをこっそり手伝ってくれた職人がいるらしい。
2006年 熊谷あさ子 ツツガムシ病で急死 享年68歳
実際に「あさこはうす」への引っ越しの準備中だった。
ツツガムシ病はダニの幼虫から感染する風土病だがこの40年間津軽で発生例がなかった。
また適切な対処で早期回復する。厚子によると近所の医院で風邪と誤診され解熱剤を処方されたことが原因となっている。
2006年 11月 共有地裁判の最終結審 朝子の共有地が収容され、代わりにあさ子の農地への通路を電源側が提供することとなる。
2008年4月 経済産業省が大間原子力発電所の設置を許可
2008年5月 第1回工事計画認可(着工)
2008年11月 運転開始予定を2012年3月から2014年11月に延期することを発表
2011年3月11日 東日本大震災そして福島第一原子力発電所で重大事故を受け工事中断
2012年10月 野田内閣の了承を得て電源開発が建設再開を宣言する。
娘厚子さんに案内されながら原発用地ほぼ中央にある母から受け継いだ農地をまわる。
母とたった二人で建設した{あさこはすす}は電気、上下水道がない。そこで支援者が中古のソーラーパネルやバッテリーをかき集め最小限の電気を供給している。敷地には沢がありきれいな水が流れていたが工事にともなう造成工事が始まると枯れてしまった。
2009年 境界にはスチールフェンスが設置され、上部には有刺鉄線が張り巡らされた。わざとフェンスぎりぎりに放置されたパイプに高圧危険という札が取り付けられている。「これもいやがらせよ!」と笑う
「この1haの土地に、多くの子供たちが集めまりキャンプして野菜作ったり、鶏飼ったり、体験できる場所を作ることが私の夢」今すぐそうなってほしいと願うばかりだ。
あさこはうすの台所 水道がないので自転車の荷台にポリタンクをつけて水を運ぶ調理はカセットコンロのガス 蛇口から水は出ない。
あさこハウスには毎日100通の手紙が届く。フランス、カナダからなど海外からの手紙も多い。郵便配達員が毎日配達することで生活道路であることを印象つける意味もあるが、娘厚子を励ます。
彼女は毎日のように昼間はこのあさこはうすで過ごし、夕方になると大間町内の実家に戻る。しかし彼女は言う「これから強制収容されぬようこの小屋に移住しようと決心した。」そこで無断熱隙間だらけの小屋を少しでも暖かくなるように協力することになった。
8月に実測のために仲間が調査に入り、部材の手配などの準備を整え改めて9月中旬に全員で現地入りする。工事に入った札幌勢と信州から駆けつけた大工チーム。中央が厚子さん。
隣はN医師、いてもたってもいられずに夜行列車に飛び乗り加勢した。
左 床面全面に断熱材と防湿シートを隙間なく敷きこむ。これで足元もあったかいねと喜ぶ厚子さん。
右 天井面も同様に断熱する信州から駆けつけてくれた大工さんチーム
左 今回の工事の棟梁役のMさん
今年春の脱原発カフェでも設営の主力メンバー。彼はもともと現場監督、一番長時間休まず働き、一番元気
右 ベランダ部分の増築工事の様子
実質2日半で断熱改修と増築を行うとてもきついスケジュール。更に電気がなく発電機を持ち込み少ない電動工具でやりくりする。
左 連日炊き出しをしてくれた厚子さん
実はこの日、政府が大間原発の工事再開を了承した。我々はテレビもラジオもなくこの報道を知らなかった
右 有給休暇も終わり帰りのフェリーニ乗り込むぎりぎりまで作業を続け、引き上げる直前のショット。このあと厚子さんはさびしいと我々に手を振り続けた。
しかし同時 周辺では以前と違う空気が流れていた。6月の時点では空家のようだった関連設備業者の事務所9月には車、人の出入りが多く、敷地外の送電線周りの道路拡張工事があちらこちらで進められた。肌で本格的に動き出す気配を感じた。
そして2012年10月1日電源開発は大間町議会に正式に建設再開を連絡した。町の予算の大半を原発交付金、そして漁業補償。大間町周辺でもはや原発反対などと声を上げる者など一人もいなくなってしました。
たった一人で30年近く体を張って建設阻止した熊谷あさ子の遺志を継ぎ、守れるかどうか今が正面場である。
最後に 熊谷あさ子は1990年代より 電源開発をはじめ地元企業、行政から執拗な説得工作を受け続けていた 。
更に彼女が頑として首を縦に振らないとみると、手段をえらばない工作にエスカレートする。
実際に明るみになった非合法集団関係者による現金と脅し。
脅迫電話、脅しの手紙、ひぼう中傷
ストーカーのごとく後をつけ回し、彼女と接触した人間のところを訪ね、二度と口をきかぬよう金品を渡し脅す。親戚、友人らを利用した説得工作。
漁師の息子の収穫を漁協が不当な値段で買いたたき、漁業継続が困難に追い込むなど家族にも被害が及ぶようになる。とうとうあさ子親子と挨拶する人すら誰一人いなくなる。
それでも屈しなかった彼女が突然他界した。
驚くほど芯の強かったあさ子がいなくなった今、彼らにとってあさこはうすはとても組みやすい相手となった。そして2012年の今日も彼らの工作活動は間違いなく続いている。我々が関わってきた今までのたった3カ月の間すら疑問に思うことが多々あった。
今しっかりとした強い支援が必要である。決して沢山のお金ではない。どんなに妨害が入っても揺らがない信頼関係をあさこはうすと、どのように築くかが最大のポイントになる。
「この1haで農業体験できて、キャンプができる場所をつくる。そして福島やいろいろなところから子供たちがあつまってきてワイワイ楽しく遊ぶようになる。」
娘厚子のささやかな夢はたやすく実現できそうだが、実際は多くの困難が待ち構えている。最後に不慮の死の直前、あさ子が県に提出した嘆願書を添付する。彼女の悲痛な叫びが心を裂く。
【引用データ】
建築を通じて考える環境とエネルギー
http://kenchiku20.exblog.jp/19179467/
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